荒船風穴(世界文化遺産)

世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」

群馬県南西部の物見山近くにある荒船風穴は、地質や地形を人々がうまく利用した例の1つです。この場所には明治末に石を積んでつくられた史跡「荒船風穴」があります。ここは電気冷蔵施設が普及する以前、蚕種(カイコの卵)の貯蔵所でした。この史跡は、ユネスコの世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の1つです。

自然現象(冷風)の活用

風穴(天然の冷風が吹き出す洞穴や岩場)が利用される以前は、カイコの卵が孵化をする春にしか養蚕(カイコを飼養し繭をとること)ができませんでした。卵を風穴で貯蔵することにより、孵化の時期を調整して、1年に複数回の養蚕ができるようになり繭の生産量の増大、生糸の増産に貢献しました。

荒船風穴は、地質時代の地滑りによって生じた玄武岩の巨礫の岩塊斜面の末端部に建てられました。岩塊の隙間から吹き出す冷風は、自然現象によるものです。冬場に冷やされた巨礫に降った雪や雨が岩の隙間に入り込み、氷柱や冷却媒体層を形成し、冷たい空気を作り出します。冷たい空気は、密度が高くなり、重たくなることから低いところに流れていき、末端部で冷風となって吹き出します。この現象は春先から秋まで続き、夏でも、岩の隙間から吹き出す冷風は2~3℃を超えません。

貯蔵庫としての利用

岩塊斜面に積まれた荒船風穴の石積みは、岩の隙間から吹き出す冷風を貯蔵庫内に取り込みます。石積み上部には土蔵造りの建屋が置かれ、内部には木製の貯蔵棚や床が作られ、貯蔵庫として整備されました。石積みには冷風を取り込み閉じ込める工夫がされており、貯蔵庫内の温度を保つことができました。

最初に建てられた貯蔵庫(1号風穴)は明治38(1905)年に稼働し、需要の高まりに対応するため2号、3号が増設されました。

日本や朝鮮半島の各地の養蚕農家は、品種や番号、製造者氏名などを書いた紙にカイコの卵を産みつけさせました。この紙は蚕卵紙や種紙などと呼ばれ、産卵後は母蛾の病気を検査し、病気のない卵だけの蚕卵紙を荒船風穴に送って貯蔵を依頼しました。荒船風穴の3基の貯蔵庫は最大110万枚の蚕卵紙を納めることができ、当時日本最大の蚕種貯蔵所でした。

冷蔵保存されていた蚕卵紙は養蚕農家の依頼に応じて返送され、到着後、卵の孵化が始まり養蚕が行われました。

風穴の衰退

大正12(1923)年の関東大震災で鉄道網が寸断され、蚕卵紙が依頼どおりに養蚕農家に返送されなかったこともあり、荒船風穴への貯蔵依頼は減少していきました。昭和10(1935)年頃に蚕種貯蔵所としての役目を終え、その頃には電気冷蔵が広く利用されていました。貯蔵所の施設は解体され、今は石積みだけが残っています。

荒船風穴が稼働していた時は、平らな場所に番舎と呼ばれた管理棟や作業小屋などもありました。これらの建物の位置や大きさは、蚕種貯蔵所全体の規模を示すために、足元に記されています。

縄文時代(紀元前1万年〜紀元前300年)の土器が管理棟の後ろの小さな岩陰で発見されています。このことから、縄文人も食物などの保存場所として、この場所の冷風を利用していたと考えられています。

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