江戸時代末、元治元年(1864年11月16日)におきた下仁田戦争は、幕府軍(高崎藩)と、現在の茨城県で挙兵した天狗党と呼ばれる反乱軍との戦でした。慶長8(1603)年から慶応3(1867)年にかけて日本を統治していた徳川幕府の衰退期には、大きな社会的、政治的混乱がありました。天狗党は、日本が外国からの開国要求を呑むのに対して、幕府に反対し天皇に権力を返還すべきという尊王攘夷派の1つでした。
天狗党は尊王攘夷の素志を理解してもらうため京都に向かい、下仁田を通過するところで戦はおきました。この戦は天狗党が京都に着くまでの間で一番大きな戦いとなり、幕府軍(高崎藩)36名、天狗党4名の死者を出しました。そのことから「下仁田戦争」として今も語り継がれています。
町には、外壁に銃弾の跡が残る蔵など、戦いの痕跡が残っています。戦を記録するために建てられた碑や戦死者の墓なども点在しています。また、関係する資料は下仁田町歴史館で展示されています。