馬山(まやま)コース

下仁田ジオパーク ガイドブック

下仁田町へようこそ

「道の駅しもにた」周辺の川の両岸に段丘地形だんきゅうちけいが広がります。狩猟生活をしていた頃は遠くを見通しやすい上位段丘面じょういだんきゅうめん、農耕をするようになると水場に近い下位段丘面かいだんきゅうめんへと生活の場所を移してきました。現在の上位・下位の段丘面には、町の特産物「下仁田ネギ」や「コンニャク」などの畑が広がります。初夏には、地元「紫陽花を育てる会」の人たちが丹精込めて育てたあじさいが段丘崖を彩ります。
 また、上信越自動車道の下仁田IC 周辺からは、約7千年前の大変珍しい渡来品の耳飾も出土しており、下仁田町が古くから他地域との交流が盛んだったことをうかがわせます。
 「道の駅しもにた」を出発して、馬山まやま地区のみどころを散策してみましょう。

段丘地形だんきゅうちけい

階段状の平坦面はかつての川がけずってできたものです。馬山地区では土地の隆起と川の浸食の繰り返しで階段状の地形ができました。
川が運んだ石や砂の層は水はけが良くネギの生育にも適しています

下仁田ジオパーク

下仁田には日本の地質100選の「根なし山(跡倉クリッペ)」や約950万年前の火山活動の痕跡があり、ダイナミックな大地の変動を感じることができます。

世界文化遺産荒船風穴をはじめ、下仁田独自の地形や地下資源を活用した歴史や産業の遺産、特産物のネギとコンニャクも下仁田の大地の恵みです。

ジオパークはそのような大地と人々のつながりを感じることができる自然公園です。

1.道の駅しもにた

 「道の駅しもにた」は、上信越自動車道下仁田ICから約5分、地元の特産物をはじめ新鮮な野菜などを販売しています。西上州の観光情報拠点施設として、「下仁田町観光案内所」も併設されています。 敷地内に設置されているトイレとEV自動急速充電器は、24時間利用可能です。

2.安楽地の板碑

安楽地あんらくじの信号から北に入った小さな道沿いの墓地内にお堂があり、中には古い板碑いたび(1368年建立)があります。板碑とは鎌倉、室町時代に造られた板状の石の卒塔婆そとうばで、供養塔・墓石の意味も持っています。板碑に使われている石は、緑色片岩りょくしょくへんがんの一種です。

お堂と板碑

緑色片岩りょくしょくへんがん

板碑いたびは薄くて平らな板状の形をしています。関東山地の中で埼玉県北部から群馬県南部に分布する三波川さんばがわ帯でとれる緑色片岩は「三波石」として知られています。縄文時代の石棒や中世の板碑などに多く使用されていました。

3.不通渓谷

千平せんだいら駅の南にある不通とおらず橋から、「不通渓谷とおらずけいこく」がよく眺められます。渓谷を流れるかぶら川で水運が使われていた頃、「不通渓谷」を船が通れなかったことが『不通』の名前の由来と言われています。
橋上流の両岸は、高さ約20 mの渓谷が500 mにわたって続く下仁田町の景勝地です。この崖は、南蛇井なんじゃいの泥岩や砂岩と、とても硬い神農原礫岩かのはられきがんでつくられた岩盤です。
「不通渓谷」の崖上の平らで広い畑は、鏑川の段丘で、数万年前の氷河時代には鏑川が氾濫を繰り返したところです。現在の渓谷は、約1万年前に削られ始めました。

不通橋と不通渓谷

昭和30年頃 不通のつり橋

4.下位段丘

下位段丘

鏑川に沿って走る、国道254号線周辺に下位段丘かいだんきゅうが続きます。約3万年前(後期更新世こうきこうしんせい)にこの高さを流れていた鏑川が、氾濫する度に泥や砂を運び平坦面をひろげ下位段丘面を覆っていきました。

段丘礫層


横瀬川・鏑川合流点の段丘礫層

段丘面を作る地層の中には、角の取れた丸い石が入っています。この丸い石はかつて川底だった時代に運ばれてきたものです。つまり、段丘面は、川が削って平らになったということです。

馬山の地形と山城跡

馬山地区の南部には「黒内くろうち」や「稲含いなふくみ」など、関東山地の一部となる山々があります。関東山地から流れてくる鏑川の支流は、南から北方向に流れて、段丘を横切るため、馬山地区には孤立した丘が点在します。

このような所は、見通しもよいことから、戦国時代には山城が築かれました。

特に馬山東城は、北側を鏑川の段丘崖、東側は横瀬川が作る段丘崖に囲まれた天然の要塞でした。


地図データは国土地理院の電子国土WEBを使用

鏑川の流路の変遷

鏑川は、約15万年前に上位段丘ができた頃、石淵いしぶちのあたりから横瀬よこぜに流れ北東の下鎌田しもかまたに向けて真っ直ぐに流れていました。

約3万年前に低位段丘ができた頃には安楽地あんらくじ若宮わかみやから大塚おおつかあたりに流れを変え、1万年前頃になると、さらに北側の現在の位置に移り、あらたに谷が削られ始めました。不通渓谷や上流のはねこし峡はこのころからできてきたものです。

5.馬山東城跡・西城跡

東城ひがしじょう

米山寺べいさんじから東北にくちばし状に300m突出した細長い城域で、現在の道の駅のあたりから登る道が追手になります。本郭は米山寺の場所だとされています。
見晴らしの良い段丘面にあり城郭の主要部をなしていました。約400m離れた馬山西城と2つで別城一郭の縄張りとされています。

西城にしじょう

戦闘のための機能が備えられた城として東城の裏山にあり、本郭の防御と物見郭、詰の郭として確保されるように整備されました。全長350 mの城域で、本丸は頂上西端にあります。鏑川からは高さ110 mの急傾斜の崖上にあり、標高334mです。

6.米山寺

米山医王院米山寺べいさんいおういんべいさんじ越後米山えちごよねやまとならぶ3米山の1つ。

1337(延元2)年開基とされて、慈覚大師じかくだいしの作といわれる薬師如来像やくしにょらいぞうが本尊で、医薬にご利益があるといわれています。天台宗てんだいしゅうで、大般若経全巻だいはんにゃきょうが寺宝となっています。

米山遺跡

米山寺べいさんじ」周辺の上位段丘面には、旧石器時代から弥生時代と、戦国時代の「米山遺跡」が分布しています。2008(平成20)年、農免道路建設に先立って行われた発掘調査では、縄文時代前期末から中期(約5千年前)にかけての集落跡がみつかり、縄文土器や石器が多く出土しました。

7.上位段丘の下仁田ローム層

「米山寺」のある上位段丘は、約15万年前、中期更新世にできた段丘とされ、横瀬川より東の農免道路に沿って広がる起伏がある畑の面へと連続し、河床からの高さは約80~90mあります。
「米山寺」と西側の畑の間には、表面の黒色土層こくしょくどそうの下に黄褐色おうかっしょくの下仁田ローム層(赤土)の上部層~中部層が数mの厚さでみられます。この付近の畑で表面が少し削られたところには、浅間山起源の軽石が転がっていて、よく見ると発泡してスポンジのように穴がたくさんあいています。

浅間山起源の軽石

道ばたにみられる下仁田ローム層

上位段丘の礫層


約15万年前に、鏑川がかつて河床だった頃に運ばれてきた礫

8.富岡層群の露頭

鏑川の近くでは、河床に砂と泥が交互に積み重なった地層がみられます。

川に面した露頭ろとうでは、新第三紀の富岡層群とみおかそうぐんがよく観察できます。

この地層からは貝やサメの歯などの化石が見つかっており、約1600万年前の海でできた地層です。

9.馬山神社

馬山神社まやまじんじゃの現在の社殿は、1877(明治10)年に村内の30 社を合祀ごうししてつくられたものです。

各地区から奉納される獅子舞が盛んです。

「馬山神社」の社殿は境内の一番低いところにあり、富岡市一の宮の貫前神社ぬきさきじんじゃと同様に珍しいつくりです。

常夜灯

常夜灯じょうやとう(石灯籠)には、時代によって違う石材が使われていますが、砂岩さがん安山岩あんざんがんが多く使われています。

また、常夜灯の上から3段目の火袋ひぶくろや5段目の竿は特に細くて、地震などによって破損し、のちに違った石材で補修されているものもあります。

現在、「馬山神社」には、江戸時代の常夜灯が多くあります。大きな災害にも耐え、作られた時代のままの姿を現在に伝えています

(写真)馬山神社の常夜灯(左)と名称(右)

10.栄命寺

若宮わかみやにある栄命寺えいめいじは、968(安和あんわ元)年慈恵大師じけいだいしの開基と伝えられる歴史のある寺です。1470(文明年間)年代に蒔田不動まいたふどうの滝より現在の地に寺を移したとされ、古い石造物が並んでいます。

11.養蚕関連跡地

鏑川と横瀬川よこぜがわが交わるところに広がる桑畑は、風通しがよく、良質な桑の葉が育ちました。良質な桑の葉で育ったかいこからは、病気の少ない良質な卵が取れることから、蚕種さんしゅの製造が盛んになり、蚕種製造所、種選別長屋、下仁田社馬山組中橋製糸場なかはしせいしじょうなどがこの一画に作られました。動力源として水車が使われ、横瀬川には水車の水を引き入れた跡も残っています。

12.若宮八幡宮と井戸

段丘崖の下には河川礫が堆積しています。川で流されて丸くなった小石が堆積した土地からは、浄化された良い水が涌き出ることから、井戸が多く掘られています。

13.只川橋下の弥生岩陰墓地

只川橋ただかわばし上流の鏑川右岸には、段丘崖に新三紀層の岩がよく見られます。崖の途中にある岩陰(ノッチ)から、弥生時代後期埋葬人骨まいそうじんこつや土器・石器が見つかっています。

※私有地を通らないと川には降りられないため、見学は橋の上からお願いします。

只川橋

1931(昭和6)年につくられ、国道254号線として利用されてきましたが、高速道のインターチェンジ建設に伴い県道48号線になりました。地形的条件から群馬県初の2ヒンジ鋼トラスアーチ橋でつくられました。美しい骨組み構造が特徴です。

土木学会選定の「土木遺産」に選ばれています。

馬山の交通の移り変わり

馬山地区で鏑川を渡る橋には不通橋とおらずばし只川橋ただかわばし比佐理橋ひさりばしがあります。

このあたりは、川幅も広く、谷が深いため、橋がかけられるようになったのは明治に入り土木技術が進んでからです。それまで富岡から下仁田に抜けるには、峠越えをする下仁田道を利用しました。

1987(明治30)年、高崎~下仁田間に全線開通した上野こうずけ鉄道も鏑川に鉄橋をかけるのが難しく、現在の山際のルートになりました。

14.大塚の古墳

前方後円墳などの規模の大きなものは上州一ノ宮駅周辺までで、それ以西で見られるのは小さな円墳がほとんどです。

鏑川左岸には南蛇井古墳群があり、右岸側に馬山古墳群が見られます。
下仁田町では唯一、原型に近いまま残された円墳です。大塚の地名もこれに由来するものと考えられます。

※私有地なので、見学は道沿いからお願いします。

馬山古墳群

群馬県の昭和13 年の古墳調査記録によると、馬山地区に約20基の古墳がありました。

その後の調査によって下鎌田しもかまた杣瀬そまぜ地区で新たに発見されました。大塚と杣瀬には、現在でも古墳が残っています。


古墳分布図

15.下仁田ICと下鎌田遺跡

下仁田ICの場所にある下鎌田遺跡しもかまたいせきは、高速道建設時に発掘され、旧石器から中世にかけての各時代の遺構や遺物が出土しました。

特に、縄文時代中期の住居址が多く確認されており、地元の石材を使った磨製石斧ませいせきふの製作址であったことが判明しました。

下鎌田遺跡の玦状耳飾

茶色のものは国内産の滑石でつくられた玦状耳飾けつじょうみみかざりです。

白色の半分に割れたものは、国内にはないアジア大陸産のネフライト(軟玉なんぎょく)が使われています。
端に孔があけられていて、割れた後に修理して大切に使われていたと推定されます。

約7千年前の縄文時代初めのもので、日本の耳飾のルーツであり、渡来品と思われる大変珍しいものです。

16.鎌田の板碑群

鎌田の板碑群は、馬山から野上のがみに越える旧道沿いにありましたが上信越自動車道建設に伴い下仁田IC南側の高台に移されました。緑色片岩などを利用した庚申塔こうしんとうが主です。背の高いものは4mを超えるものもあります。

17.あじさい園

馬山地区の「紫陽花を育てる会」が、維持・管理を行っていて、約2万株の紫陽花が段丘崖に咲き誇ります。

あじさい祭り

毎年6月から7月にかけてあじさい祭りが開催され、県内外から多くの観光客が訪れます。
紫陽花を育てる会の人たちを中心に売店やお休みどころが開かれ、祭りが盛り上がります。

ジオパークコーナーでは、ポスター展示やジオの会会員による解説も行っています。

18.遺跡街道

農免道路に沿った馬山丘陵の上位段丘面には、米山べいさん遺跡、富士塚ふじづか遺跡、観音寺原かんのんじばら遺跡、長尾根ながおね遺跡、下鎌田しもかまた遺跡がほぼ連続して分布しています。

縄文時代、人々は川から離れた高台の丘陵を生活場所にしていたと考えられます


遺跡分布図(旧石器~縄文時代)

19.杣瀬城跡

上信越自動車道建設の際、掘割になることから発掘調査が行われました。

縄文時代の住居跡から戦国時代の城跡や寺跡が発見されています。城原じょうはらは河岸段丘最上位面で素晴らしい見晴らしです。

また、古墳の跡が見られ、石室の壁面に使われたと思われる砂岩質の板状の石が見られます。城原と書き、地元では「じょうっぱら」と呼ばれています。

20.権現平橋

上信越自動車道本線に架かる橋で小字が権現平であったことから権現平橋ごんげんだいらばしと名付けられました。

高速道路で下仁田町に入ると妙義山や遠くに特徴的な荒船山が見えてきます。ふるさとに帰ってきたと思わせる風景です。

21.はねこし峡

馬山地区と下仁田地区の境の、国道254号線に沿って流れる鏑川の両岸には、高さ約20mの岩壁が続きます。この場所は、はねこし峡と呼ばれ、大正時代には岩盤の上に出店が作られ、水泳場として賑わった景勝地で、上信電鉄の臨時停車場もつくられました。

はねこし峡は今から約7千万年前にできた神農原礫岩かのはられきがんと呼ばれる硬い岩で、岩の中に赤い礫が入っていて全体が赤っぽく見えます。この赤くて硬い岩盤を川が削り、とてもきれいな渓谷を作っています。


はねこし峡を作る神農原礫岩

浦島伝説の残るはねこし峡とポットホール

はねこし峡上流の、河床より10mほど高い小段に直径2m、深さ3mの穴があいています。かつてこの場所が川底だった時に、川の水で流される小石が転がりながら
削って作った、『ポットホール(甌穴おうけつ)』と呼ばれるものです。
地元では小段の下の淵を太郎淵と呼んでいて、この穴が竜宮城につながっているという浦島伝説が残されています。

22.蒔田不動尊

蒔田不動尊は、968(安和元)年慈恵大師が滝を発見し、草堂を設置、不動明王を祀ったのが始まりといわれています。


(左)不動尊に続く石段 (右)不動尊の御開帳と護摩焚き

蒔田の人たちの拠り所として慕われ、管理されています。毎年、1月と4月の28日には、不動尊の御開帳と護摩焚きが行われます。

不動の滝

正式名称を天雨瀑布あまうのばくふといい、約2億7千万年前の川井山石英閃緑岩の岩壁を流れ落ちます。

滝の下の岩の上には小さな石像が、近くの岩穴には弁財天が祀られています。


岩穴の弁財天(左)と滝の下の小さな不動明王(右)

下仁田の名産品

下仁田ネギ

馬山地区には、広大な畑が広がり『下仁田ネギ』が多くつくられています。

秋10月に種まき、翌年4月に仮植え、真夏の8月に定植と、2度の植え替えを行い、収穫まで約15か月の間、手間暇をかけて育てられます。
冬になり霜にあたると甘さを増します。立派に育った下仁田ネギは、贈答品として全国へ出荷されています。

江戸時代、下仁田ネギが高崎藩の殿様により贈答品として重宝されたという記録から、下仁田の地がネギの産地として知られるとともに「殿様ネギ」と呼ばれる所以となりました。

コンニャク

コンニャク芋は、作物を作るのには不向きな山間地での栽培に適していたため、下仁田町や南牧村で盛んに栽培されました。

明治期に水車技術がもたらされ精粉業が盛んになり、下仁田のコンニャク産業は発展を遂げることになりました。

現在では、品種改良が行われ、栽培は広い農地を持つ県内各地へ移り、収穫されたコンニャク芋は集積地となった下仁田に集まり、精粉及び製品加工され全国に出荷されます。